2008年夏: 2008年5月アーカイブ
いつもGmail を開くと、左側のチャット機能の中に、MBAの友達たちのオンオフのステータスが表示されている。このGmailのチャットには、短いカスタムメッセージを入れる機能があって、普通は皆自分の住んでいる地名や、好きな言葉などを書いている。
ところが、今日開いてみると、珍しく韓国人のアーヤンが、カスタムメッセージの欄に自分のブログのURLを入れていた。
これ↓↓↓
http://mademoisellejaune.blogspot.com/
クリックして開いてみると・・・
そこにはアラビアンな世界が!!
そういえば、数か月前、クラスのアナウンスで、MBAのビジネストリップ第二弾で、ドゥバイに行くっていう話があったな。チームメイトのCPA・ランディーや、台湾人のクリスチャンセンも行くと言っていたが、アーヤンも参加していたとは知らなかった。
「ケンジ、お前も行かないのか?」
と誘われたけど、ほぼ全額持ち出しなので、30万ほどの出費だったので断念(というか、そもそも、うちの社長から許可も下りる訳もないが)。
いつか行ってみたいですね。ドゥバイ。
ところが、今日開いてみると、珍しく韓国人のアーヤンが、カスタムメッセージの欄に自分のブログのURLを入れていた。
これ↓↓↓
http://mademoisellejaune.blogspot.com/
クリックして開いてみると・・・
そこにはアラビアンな世界が!!
そういえば、数か月前、クラスのアナウンスで、MBAのビジネストリップ第二弾で、ドゥバイに行くっていう話があったな。チームメイトのCPA・ランディーや、台湾人のクリスチャンセンも行くと言っていたが、アーヤンも参加していたとは知らなかった。
「ケンジ、お前も行かないのか?」
と誘われたけど、ほぼ全額持ち出しなので、30万ほどの出費だったので断念(というか、そもそも、うちの社長から許可も下りる訳もないが)。
いつか行ってみたいですね。ドゥバイ。
先週の土曜日、僕の恩師、ジェームス・A・マッカーサー会長に会いに行った。
彼は、今から10年前に2年間、僕のMission Presidentだった方だ。本当に、本当に思いやりの深い、優しい素晴らしい方で、彼が僕の人生に与えてくれた影響は計り知れない。人は、優しさを受けた分だけ、人に優しくなれるもの。彼の傍にいるだけで、そう感じさせてくれる人だった。
息子の奏(かなで)がアメリカで生まれたとき、僕が迷わず選んだミドルネームは、「ジェームス」だった。マッカーサー会長のように、優しい思いやりの深い人になって欲しい。そういう思いを込めて僕はこの名前をつけたのだが、当の本人は感動の対面にも関わらず、頂いたお菓子をボリボリ・・・・。
奏、ジェームスの名前に恥じないいい男になってくれよ!

彼は、今から10年前に2年間、僕のMission Presidentだった方だ。本当に、本当に思いやりの深い、優しい素晴らしい方で、彼が僕の人生に与えてくれた影響は計り知れない。人は、優しさを受けた分だけ、人に優しくなれるもの。彼の傍にいるだけで、そう感じさせてくれる人だった。
息子の奏(かなで)がアメリカで生まれたとき、僕が迷わず選んだミドルネームは、「ジェームス」だった。マッカーサー会長のように、優しい思いやりの深い人になって欲しい。そういう思いを込めて僕はこの名前をつけたのだが、当の本人は感動の対面にも関わらず、頂いたお菓子をボリボリ・・・・。
奏、ジェームスの名前に恥じないいい男になってくれよ!
沖縄(琉球王国)からも無事に帰国(?)し、今週からインターンシップが始まったのだが、仕事が終わった夜に、友人のS君と会うことに。S君との出会いは今から7年ほど前のこと。僕が大学三年生の頃、大前研一氏の政策学校「一新塾」 に入塾していたのだが、S君はそこで、事務所のインターンとして無料で働いていたのだった。当時彼は上智大学の学生で、比較文化という、外人しかいない学部で勉強をしていた。
卒業後、彼が選んだ進路は、投資銀行の一角、ベアースターンズだった。
ベアースターンズは、株式、債券、投資銀行業務、富裕層へのプライベート・バンキング、グローバル・クリアリング・サービスを主としている名門企業だったが、昨年から騒がれ始めたサブプライム問題は、同社にも飛び火し、資金繰りが悪化。あっという間に回復がきかないレベルにまで落ち込んでしまった。結局、倒産が避けられなくなり、JPモルガンが買収することで一応の決着を見せた。
S君の部署は、去年と今年は数字がよく、喜んでいたのも束の間、あっという間に会社が倒産・買収されることがきまってしまった。彼の話によると、当初は潤沢な資金はあったにも関わらず、信用不信の広がりから金利が上昇し、資金繰りが急激に悪化したのだという。
これからどうするの、と聞くと、
「JPモルガンに移る話もあったけど、MBAを受験しようと思って。」
とのこと。目指せトップ10だという。S君とは2時間ほど食事をしながら話をして分かれたのだが、帰り道にくれたメールが面白かった。
久々にに会えて楽しかったよ 学生時代からの付き合いだから、お互い変な遠慮もないしすべて本音ベースで話せるからね。
まさに今の自分の置かれた境遇はまさに背水の陣。 ここまでリング際に追い込まれたのは久々だよ。何かに挑戦することは苦難が付き物だから、避けては通れないんだけど、まさか熊(Bear)がサブプライムでひっくり返るとは・・・・・
今住んでいる住所を教えてくれる?お子さんに会社のベア人形を送るよ。悪いことはすべて熊が引き受けてくれるいいお守りになると思うから。
PS
ベア人形は明日手配するよ。でもネットオークションで売らないでね。ベアの株より高いんだから。
どうも、ベアースターンズのマスコットの熊ちゃん人形は、希少価値が上がって、オークションで高値で取引されているらしい。しかし、ベアーちゃん人形、縁起がいいのか悪いのか。僕にはよく分かりません。笑
S君、頂く熊ちゃんは、我が家の家宝にさせて頂きます。
これが後日S君が送ってきてくれたベアーちゃん
何と、ベアースターンズのセーターを着たテディベア!
何と、ベアースターンズのセーターを着たテディベア!
沖縄滞在3日目に、我々はお婆ちゃんと一緒に「ひめゆりの塔」を訪れた。お婆ちゃんは、毎週この「ひめゆりの塔」で、生き証人として、戦争の体験を訪問者に伝えている。

ひめゆりの塔とは、沖縄戦末期の激しい戦闘でほぼ全滅した沖縄陸軍病院第三外科壕の跡に立つ慰霊碑。この第三外科壕に学徒隊として従軍していたのが、いわゆる「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名である。お婆ちゃんも、この240名のうちの一人。
お婆ちゃんの話しによると、沖縄戦が始まった1945年3月末当初、ひめゆり学徒隊は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として2ヶ月間働いていたのだが、日本軍の全線が後退するにつれ、病院付近も激しい砲撃にさらされるようになったため、5月末には南部に撤退し、分散して地下壕に潜むことになったのだという。お婆ちゃんは、夜砲弾をかいくぐり、波平の防空壕に3週間身を潜めていたという。
防空壕に身を潜めている間、捕虜にするために、米軍はひっきりなしに周辺を徘徊していたらしいのだが、生徒たちは米軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人も多かったという。どうしてなのか、お婆ちゃんに聞いてみると、次のような答えが返ってきた。
「当時の教育では、捕まったら米軍に殺される、と教えられていてね。今考えてみると、それは日本軍の秘密を敵国に漏らさないようにするための、軍事戦略の一つだったようなんだけど。教育というのは本当に恐ろしいものよね。」
さらにこう続いた。
「‥実は追い詰められたときに、私も自決しようとしたことがあってね。でも、一緒にいた日本軍の兵士さんが、『早まるな!あんた学生さんだろ。米軍は学生は殺さんと聞いてるぞ。だから早まるな!』そういって止めてくれたのよ。そうでなきゃ、あそこで死んでいたわね。」
ひめゆり平和記念資料館の第四資料室、鎮魂の部屋。ここでは、亡くなられた136人の方々の写真が展示されている。僕は、眠っている1歳になる息子を抱きながら、お婆ちゃんの話しに耳を傾けていたのだが、この「ひめゆり」から受け継いだ小さな命を両手に感じながら、あふれてくる涙を禁じえなかった。
ひめゆりの塔そのものは、学徒隊の一部が避難していた鍾乳洞の入り口にたてられているのだが、この資料館を建てるときに、この鍾乳洞を公開しよう、という話しがあったという。ところが、当時の知事が、「この場所は聖域だから」という理由で、許可を出さなかったのだという。
「私に言わせれば、何を言っているのかと思う。聖域はこの場所ではなく、沖縄すべてが聖域。本当に多くの人が沖縄全土で亡くなったのだから。」
お婆ちゃんのこの言葉には、青い海と広い空が広がるレジャー王国沖縄の持つ、もう一つの姿を僕に教えてくれているような気がした。

願わくは、僕の子供達が戦争の何たるかを理解できるようになった頃に、お婆ちゃんともう一度、この場所に来たいものだ。そして、自分に与えられた命の価値と尊さを、彼らが理解してくれればと願ってやまない。
ひめゆりの塔とは、沖縄戦末期の激しい戦闘でほぼ全滅した沖縄陸軍病院第三外科壕の跡に立つ慰霊碑。この第三外科壕に学徒隊として従軍していたのが、いわゆる「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名である。お婆ちゃんも、この240名のうちの一人。
お婆ちゃんの話しによると、沖縄戦が始まった1945年3月末当初、ひめゆり学徒隊は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として2ヶ月間働いていたのだが、日本軍の全線が後退するにつれ、病院付近も激しい砲撃にさらされるようになったため、5月末には南部に撤退し、分散して地下壕に潜むことになったのだという。お婆ちゃんは、夜砲弾をかいくぐり、波平の防空壕に3週間身を潜めていたという。
防空壕に身を潜めている間、捕虜にするために、米軍はひっきりなしに周辺を徘徊していたらしいのだが、生徒たちは米軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人も多かったという。どうしてなのか、お婆ちゃんに聞いてみると、次のような答えが返ってきた。「当時の教育では、捕まったら米軍に殺される、と教えられていてね。今考えてみると、それは日本軍の秘密を敵国に漏らさないようにするための、軍事戦略の一つだったようなんだけど。教育というのは本当に恐ろしいものよね。」
さらにこう続いた。
「‥実は追い詰められたときに、私も自決しようとしたことがあってね。でも、一緒にいた日本軍の兵士さんが、『早まるな!あんた学生さんだろ。米軍は学生は殺さんと聞いてるぞ。だから早まるな!』そういって止めてくれたのよ。そうでなきゃ、あそこで死んでいたわね。」
ひめゆり平和記念資料館の第四資料室、鎮魂の部屋。ここでは、亡くなられた136人の方々の写真が展示されている。僕は、眠っている1歳になる息子を抱きながら、お婆ちゃんの話しに耳を傾けていたのだが、この「ひめゆり」から受け継いだ小さな命を両手に感じながら、あふれてくる涙を禁じえなかった。
ひめゆりの塔そのものは、学徒隊の一部が避難していた鍾乳洞の入り口にたてられているのだが、この資料館を建てるときに、この鍾乳洞を公開しよう、という話しがあったという。ところが、当時の知事が、「この場所は聖域だから」という理由で、許可を出さなかったのだという。
「私に言わせれば、何を言っているのかと思う。聖域はこの場所ではなく、沖縄すべてが聖域。本当に多くの人が沖縄全土で亡くなったのだから。」
お婆ちゃんのこの言葉には、青い海と広い空が広がるレジャー王国沖縄の持つ、もう一つの姿を僕に教えてくれているような気がした。
太陽の下で大手を振って歩きたい…
水が飲みたい、水、水…
お母さん、お母さん…
学友の声が聞こえます。
私たちは、
真相を知らずに
戦場へ出てゆきました。
戦争は、
命あるあらゆるものを殺す
むごいものです。
私たちは
一人びとりの体験を通して知った
戦争の実体を語り続けます。
(ひめゆり平和記念資料館)
願わくは、僕の子供達が戦争の何たるかを理解できるようになった頃に、お婆ちゃんともう一度、この場所に来たいものだ。そして、自分に与えられた命の価値と尊さを、彼らが理解してくれればと願ってやまない。
実は、わが社(家)の社長(妻)は沖縄出身。今でも、ひいお婆ちゃんを初めとするたくさんの親戚が沖縄に住んでいる。結婚している社長(妻)の兄弟で結婚後に帰省していないのは我が家くらいだったので、インターンシップが始まる前に、沖縄に行くことにした。
僕が初めて沖縄の地に足を踏み入れたのは、今から丁度10年前の9月。大学を休学して、Japan Fukuoka Missionで働いていたときに、熊本から沖縄の首里へ転勤が決まった。九州の盆地にある熊本は、東京出身の僕にとってはあまりに暑い場所で、ようやく涼しくなりかけていた9月に、常夏の島・沖縄へ行くことになった。
当時はまだ空港が新しくなる前で、空港に降りたつやいなや、あまりの熱気で景色がゆらいで見えたのをよく覚えている。それから9ヶ月間、首里と与那原の2箇所で暮らすことになったのだが、多くの出会いや経験に恵まれた、本当にすばらしい日々だった。
あれから10年たって、沖縄出身の奥さんと子供を二人連れて、また沖縄の地を踏んでいることを考えると、何とも不思議な気分になる。
沖縄に滞在中は、社長(妻)のお婆ちゃんの家に滞在させて頂いていたのだが、ここがなんと那覇の国際通りから歩いて5分という驚くべき好立地。モノレールの駅も近く、あまりに便利でびっくりしてしまった。
妻のお婆ちゃんは、80歳を超える高齢なのだが、見た目は大変若く、驚くほど元気。学校の教員をしていた、というお婆ちゃんは大変教養のある方で、戦前の、沖縄師範学校及び、沖縄県立第一高等女学校の卒業生でもある。
‥そう、お婆ちゃんは、ひめゆり学徒隊の生き残りなのだ。
僕が初めて沖縄の地に足を踏み入れたのは、今から丁度10年前の9月。大学を休学して、Japan Fukuoka Missionで働いていたときに、熊本から沖縄の首里へ転勤が決まった。九州の盆地にある熊本は、東京出身の僕にとってはあまりに暑い場所で、ようやく涼しくなりかけていた9月に、常夏の島・沖縄へ行くことになった。
当時はまだ空港が新しくなる前で、空港に降りたつやいなや、あまりの熱気で景色がゆらいで見えたのをよく覚えている。それから9ヶ月間、首里と与那原の2箇所で暮らすことになったのだが、多くの出会いや経験に恵まれた、本当にすばらしい日々だった。
あれから10年たって、沖縄出身の奥さんと子供を二人連れて、また沖縄の地を踏んでいることを考えると、何とも不思議な気分になる。
沖縄に滞在中は、社長(妻)のお婆ちゃんの家に滞在させて頂いていたのだが、ここがなんと那覇の国際通りから歩いて5分という驚くべき好立地。モノレールの駅も近く、あまりに便利でびっくりしてしまった。
妻のお婆ちゃんは、80歳を超える高齢なのだが、見た目は大変若く、驚くほど元気。学校の教員をしていた、というお婆ちゃんは大変教養のある方で、戦前の、沖縄師範学校及び、沖縄県立第一高等女学校の卒業生でもある。
‥そう、お婆ちゃんは、ひめゆり学徒隊の生き残りなのだ。
インターンシップの期間だというのに、新しいCISスペシャリストのネルソンからは、よくメールが来る。彼が送ってくれたリンクの中に、CISの創立者、カードン氏の写真とメッセージが掲載してあったので下記に転載させていただく。
"The returned missionaries could see that education was the key to opportunity, but they didn't know how they could get an education. They had tremendous capacity; they just needed an opportunity."
"The returned missionaries could see that education was the key to opportunity, but they didn't know how they could get an education. They had tremendous capacity; they just needed an opportunity." -Wilford A. Cardon
CIS奨学金については、何度もこのブログで紹介しているが、この制度が切り開いてくれた可能性と機会は、あまりに大きい。ドナーの方々は、合計20名ほどいるらしいのだが、単純に見積もってみても、毎年一人びとりが、一千万円以上の寄付をしてくださっていることになる。
しかし、このCIS奨学金を受けることはすなわち、新しい義務と責任を負うことでもある。今年卒業したたすく君の言葉が、その義務と責任をよく表現している。
CIS奨学金については、何度もこのブログで紹介しているが、この制度が切り開いてくれた可能性と機会は、あまりに大きい。ドナーの方々は、合計20名ほどいるらしいのだが、単純に見積もってみても、毎年一人びとりが、一千万円以上の寄付をしてくださっていることになる。
しかし、このCIS奨学金を受けることはすなわち、新しい義務と責任を負うことでもある。今年卒業したたすく君の言葉が、その義務と責任をよく表現している。
Cardon International Scholoarshipの目的のひとつに奨学金を受ける学生が自分の国や地域に戻り、 社会、コミュニテイ、そして教会でリーダーとして奉仕するための準備をさせるとあります。 私自身、考えていることですが、奨学金を受けるためにこの目的に対して強いcommitmentが必要かと思います。なぜなら、Scholarshipを もらうことによって大きな支援を受けますが、それと同時に義務と責任も問われからです。『BYU MBA日本人会公式サイト』より引用


