2007年6月アーカイブ

泣き言はこれ以上言っていられない。僕は、迷わずプレゼンスの扉を叩いた。


プレゼンスに行ったときには、既に3日後にTOEFL IBTの予約を入れた後だった。逆算すると、2回しか受験のチャンスがない。とにかく一度試験を受けて、その後1ヶ月間プレゼンスで授業を受け、最後の受験チャンスに掛ける。これが最初にイメージしていた攻略へのロードマップだった。


しかし、栗原コーチといろいろと相談していくと恐ろしい事実が明らかになった。

栗原コーチ 「…2度目の試験、7月1日の提出に間に合わないですね。。かなりやばいっすよ。」

実は、TOEFL IBTは1ヶ月に4回しか受験の機会がないため、予約が殺到し、試験を受けることが非常に難しくなっていたのだ。仕方がないので、プレゼンスは断念し、もう一つの可能性に掛けることにした。

IELTS(アイエルツ)だ。

合格通知が来るが…

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帰国した僕たち家族は、妻の実家にお世話になることになり、事はN会長のところで、またアルバイトをさせて頂くことになった。


合格通知が届いたのは4月の終わり頃だった。メールと書面が送られてきた。長かったなぁ、と感傷に浸るまもなく、数日後に爆弾メールが届いた。読んでビックリ。

・・・・・・・・・

I am writing to let you know that the BYU MBA Admissions Committee has recommended you for admission to the MBA program for Fall 2007. Congratulations!

Your admission is provisional, based on the following:
You are required to submit a TOEFL score by April 30, 2007 that meets the university requirements.
According to our records, the May 2006 TOEFL test does not meet university requirements.  The listening score is 19 and the university requires a minimum score of 21 in that section of the test.  The university requires applicants to meet a total minimum score and minimums in each subsection of the test.  It appears that you need to re-take the TOEFL to try to meet the university requirements.  That needs to be done before April 30.

(以下略)

・・・・・・・・

要は、「TOEFLのリスニングセクションの点数が2点足りないから入学させられない」とのこと。

「入れて欲しかったら、再度スコアを提出するように。」

たった2点!!しかも、リクルーティングのディレクターに直接確認までしていたのに、今更何を言い出すのか。馬鹿げてると思った僕は、いろいろ手を尽くしてAdmission Officeに掛け合ってみたが、まったく駄目だった。

結局、期限を7月1日まで延ばししてもらい、再度TOEFLを受験しなくてはならないことになった。時期は5月になっていたので、スコアレポートの提出を逆 算すると、2回しか受験チャンスがない。しかも、テストはTOEFL IBTに移行してしまっていて、かなりの勉強をやり直さなければならなかった。

CBTで240オーバーを取るだけでも、1年以上かかったのに、今回は一ヶ月でスコアを出せという。

僕は絶望的な気分になった。

妻にまた心配と負担をかけるのかと思うと、つらくて山手線に乗りながら、泣いてしまった。

慌ただしく面接、そして帰国

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GMATが終わったことを、既に入学しているM君に伝えたところ、彼がAdmission Officeのディレクターに掛け合ってくれて、すぐに面接に行くことになった。

面接を受けたの3月7日で、帰国の前日だった。面接は当時のMBAのディレクターのDr スタイスが担当してくれた。志望動機をはじめとするいくつかの質問を聞かれた。


そして翌日、慌ただしく、家族で帰国した。一応、合格して数ヵ月後に戻る「予定」だったので、荷物のほとんどは、カバリオ家の地下に置かせてもらった。荷物の運搬は、GMATクラスのクラスメイトのサンティアゴがバンを出してくれた。

GMAT、海外出産、水漏れ事件など、本当に、大変な半年間だった。

GMATの攻略

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3月の始め、最後のGMATの予約を入れた。泣いても笑っても、これが最後のチャンスだった。Official Guide、Kaplan、プリンストンなど今までやった問題の総復習に加え、この時期はひたすらPowerPrepをやりこんだ。

PowerPrepのメリットは、実問題に最も近いため、実践への備えができること。また、スコアの算出も、実際のGMATに即していることだと思う。その反面、最大の難点は、問題の解説がないため、正しいフィードバックが難しい。

僕は、PowerPrepをやり、間違えた問題をエクセルシートにひたすらハードコピーしていった。さらに、そのハードコピーをプリントアウトし、ひたすらなぜ間違えたのか、をチェックし続けた。分からない問題は、シェーンやクラスメイトのカイルやエアーに聞いて消化した。



受験当日は、さすがに緊張した。このテストに家族の命運が掛かっているのだ。震える手で、スタートボタンを押す。


受験時には、非常に面白いことが起きた。Mathは相変わらずランダムクリックをしたものもあったが、VerbalのSCとCRに関しては、問題を読んでいくと、パッと回答が分かるのだ。こういった感覚は初めてのことだった。


最後の画面に来て、スコアが表示された。

「610点」

やった!!Mathが45と落ち込んだが、Verbalは28と過去最高点を出すことができた。

半年間、リスクを取って勉強してきた甲斐があったと思う。今思い出してみても、この半年間で抱え込んだプレッシャーを考えると、本当に気分が悪くなる。


社長(妻)も、本当に喜んでくれた。帰宅後の会話。


社長(妻) 「本当によかったわね。」

僕 「ありがとうございます。奇跡ですね。」

社長(妻) 「帰宅があまりに遅いんで、スコアが悪くてどっかで落ち込んでるのかと思ったわよ。」

僕 「・・・・・」


水漏れ事件

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出産の直後、我が家を襲った事件があった。


事件発生

その日は、妻の退院の日だった。産後、妻は病院に入院していたので、その期間僕は息子の瞬と二人で家にいたのだが、朝からずっと瞬はぐずっていた。彼にとっては、母親がいない家にいるのは、はじめての経験だったので、きっと心配だったのだろう。


電話で妻と話をしているときに瞬に代わると

「ママ…」

と言ったまま、目には大粒の涙。


そんな訳で、ようやく退院する日は我が家にとって待ち遠しい日だった。11時過ぎに迎えに行き、帰宅したのは2時過ぎだった。

ところが、帰宅して水を出そうとしても、蛇口から水が出てこない。

「あれ?おかしいな?」

と思い、一階の人のところへ行くと、モップで床を拭いている。その人が言うには、水道管が破裂して、水が止まっているとのこと。


しばらくすると、アパートのマネージャーが飛び込んできて事情が分かった。僕が外出するとき、どうやら水道の水を出しっぱなしにしてしまったようなのだ。それが原因で、水道管が破裂、一階に浸水してしまったという。

「一階はひどい状況よ。お金を払ってもらうことになると思う。」

そう言ってマネージャーは立ち去っていった。



そうだ、保険があった!

折角の、家族の大切な日になるはずが、とんでもない事件が起きてしまい、生きた心地がしなかった。だいたい、賠償金を支払うような貯金は我が家にない。


困っていると、渡米の際に、ちゃんと保険に加入していたことを思い出した。ジェイアイ保険だ。確か、保険の項目に「賠償」の項目があったはず。

早速、ラスベガスの支店に電話をしてみた。セツコさん、という担当の方が対応してくれた。

ところが‥‥

「残念ながら、お客様の加入された保険では、カバーできません。」

という返答。


どうも、僕はうっかりして「海外 留学保険」に加入すべきところを「海外 旅行保険」に加入していたのだ。

「ホテルでしたら、対象になったのですが。。。」

とセツコさん。

僕たち家族は途方に暮れるばかりだった。



救いの手

それからの数日間は、いくらになるか分からない請求書に怯えながら、悶々として時間を過ごしていた。できることと言えば、お祈りすることくらいだ。事態は、完全に自分たちの力以上の世界に入っていってしまっていた。

事件発生から3日目、電話が鳴った。ジェイアイ保険のセツコさんからだった。

「実は、お客様の保険が下りる事になりました。」

とのこと。

「お客様があまりにお困りのようだったので、私が本社に掛け合って、今回は特別に対応できることになりました。」

どれほど、私たちがこの電話で救われたか、表現することはできない。結局、掛かったお金は15万くらいだったのだが、この電話で得た安心感は、お金には換えがたいものがあった。

本当に、セツコさんに感謝した。祈りは聞き届けられたのだ。奇跡だった。

義理の母の助け

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第二子の奏が生まれて一週間後、妻の実家の母が、ヘルプにわざわざ日本から来てくれた。母は英語がまったく話せないにも関わらず、大変な思いをしながらアメリカに来てくれたのだ。

特に、ユタに行くためには一度サンプランシスコで乗換えをする必要があり、本当に大変だったようだ。


産後で、身動きが取れない妻と私にとっては、本当に涙がでるくらい、有難かった。母が来てくれなかったら、僕は勉強どころではなかっただろう。

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ブリガムヤング大学MBAの一般的な出願の提出期限は、1月15日だった。

NativeとInternational Studentは若干時期に差異があるのだが、International Studentはテストスコア以外の書類はすべて1月15日までにそろえる必要があった。

・アプリケーションフォーム
・エッセイ3本
・推薦状3通
・財政証明書
・成績証明書
・TOEFLのテストスコア
・Resume


中でも時間がかかったのはエッセイなのだが、これはセルネートのシェーンが本当によく助けてくれた。5回くらいは書き直しただろうか。内容から構成、表現に至るまで、細かいところまでチェックしてくれた。本当に感謝している。


書類は、一部を除いてすべてオンラインで入力し、前日に上記のすべての書類を提出し終えた。これで、あとはGMATだけだ。

GMATに光明が見え始める

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GMATの勉強方法を考え直す必要があることは明白だった。

プレゼンスの方法は、GMATオフィシャルガイド 10th Editionをひたすらしゃぶりつくす、というものだったが、何度も解いているうちに、回答をすべて覚えてしまい、GMATの脳みそをまったく使っていないことに気づいた。
(これはプレゼンスの問題ではなく、僕自身の問題。)


そこで、通常のOfficial Guideに加え、新しい問題に取り組むために、Kaplan GMAT という定評のあった教材に手を出してみた。

これが大正解。付属されているCDに入っている問題を数回やり込んでから1月のテストを受けると、スコアは、

「550点」

と上を向き始めた。


さらにプリンストンレビューのCracking The GMAT 2006 という有名な参考書にも手を出し、2月の試験も受けてみると、

「560点」

というスコアで前回と最終的なスコアはあまり変わらなかったが、VerbalのRow Scoreは5くらい上がったので、手ごたえを感じ始めた。


スコアは確かに上がっている。しかし、あとチャンスは1度だけ。
僕は、追い詰められていた。

海外出産を経験する

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第二子の奏(かなで)が生まれたのは、2007年1月1日のことだった。夫は無職の受験生。1歳の子供を抱え、言葉もろくに分からない異国の地で、新しい子供を出産する妻のことを思うと、たまらない気分だった。朝方に陣痛が来て、すぐに病院に向かった。


我が家にとって奇跡だったのは、素晴らしい人たちに助けられたこと。

主治医は、40年前に日本で宣教活動を行っていて日本語が話せるドクター・ワージー、看護しは妻の教会の友人のオータムさん。そして、つい2週間前に友達になった、日本人で看護師をされていたゆみこさんが同伴してくれた。


昼過ぎには、待望の第二子が生まれた。

神様の導きに従って、美しい人生を奏でて欲しい、という意味をこめて「奏(かなで)」と命名した。また、僕の恩師、President James A. McArthurの名前を取って、ジェームスというミドルネームをつけた。

ドクターワージー
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次男・奏(かなで)
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GMATを受けるも苦戦

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GMATには年間受験回数5回、という制限があるため、3月がGMATの最終の提出期限だったことを踏まえ、逆算して11月から、受験を開始した。

プロボから車で30分ほど北のドレイパーへ行き、民間のテストセンターで受験をした。

GMATはコンピュータでの試験のため、受験終了と共にスコアが表示されるのだが、スコアをみて愕然とした。

「490点」

確かに初受験だったが、数ヶ月間、必死に勉強してきた結果がこれか、と思い本当に落胆した。まぁ、最初に受けたPowerPrepが350点だったことを思えば進展はあったというところか。


気を取り直して12月にまた受験してみると、なんと驚いたことに、またもや

「490点」。

このスコアには本当に堪えた。背水の陣で望んでいるのに、こんな端にも棒にも掛からないスコアを立て続けに出している自分が情けなかった。

正直なところ、この12月の時点で、本当にスコアを出しておきたかった。というのは、妻の出産が近づいていたからだった。。。
10月の終わりに、リクルーティングのディレクターに会いに行った。この人は、日本に数年JETプログラムその他で滞在していた経験がある人で、日本人びいきの、大変いい人だった。

実は、アメリカに着いてから、非常に気になっていることが一つあった。それは、TOEFLのスコア。

既に入学している先輩たちからの話では、TOEFL CBTで240を超えて入ればまったく問題ない、ということだったが、アメリカに来てからHPをよく見ると、セクションごとの最低獲得点数が出ていたのだ。

"TOEFL CBT 240, TOEFL IBT 94 (minimum score of 22 in Speaking and minimum score of 21 in Listening, Reading, and Writing)"

僕はこの表記をみて青ざめた。リスニングが19点しかなかったからだ。

丁度、僕が受験していた2006年は、TOEFLの試験制度がCBTからIBTに変わる過渡期で、IBTの移行に伴い、大学側がTOEFLの基準を変更したようだった。


僕はディレクターに聞いてみた。

「僕のリスニングのスコアは19点だけど、大丈夫なのか。」

彼の答えはこうだった。

「240超えてるんでしょ?だったら大丈夫だと思うけど。」


この答えを聞いて、安心して帰ったのだが、この件が、後々また問題になることになる。

セルネートでの日々

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セルネートでの毎日は、大変規則正しい生活を送り、GMATの勉強に集中することができた。

【毎日のスケジュール】

●7:00 起床。毎朝息子の瞬が起こしにくる
●7:30 瞬と朝ごはんを食べてシャワーを浴びる
●8:00 瞬と二人で散歩
●8:30 帰宅して、学校に行く準備をし、出発(徒歩10分)。
●9:00 学校に到着。授業開始。
●14:30 授業終了。そのまま自習室で勉強開始。
●17:00 学校が閉まるので、帰宅。家族で夕食。
●18:00 BYUの図書館へ行き、自習を開始。
●23:00 帰宅
●24:00 就寝

だいたい、こんな感じで毎日を過ごしていた。毎日少なくとも、10時間くらいは勉強する時間を取れた。ネットの体験談を読むと、仕事をしながら、数ヶ月で結果を出している人たちの話がたくさん掲載されているが、超がつく数学オンチで、頭の悪い僕には土台無理な話だ。


夜中まで勉強した図書館
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Selnate International School

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留学したのは、BYUがある、ユタ州プロボ市。ここにある、Selnate International School という語学学校に入学した。
理由は簡単で、ユタ州プロボ市には、Selnate以外にGMATのクラスを開いている語学学校がないのだ。

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tracy.jpgこのSelnateのディレクターは、トレーシーといって、日本語が堪能な、大変よい人だった。
また、実際にGMATの授業を担当してくれたのはシェーンという先生だった。シェーンは、BYUの言語学のMaster Degreeを持っていて、本当はハーバードも合格していたが、学費が安いという理由でBYUを選らんだ秀才だった。

GMAT/GREコースは6名が在籍していて、国籍も多様だった。びっくりしたのは、40代、50代の生徒もいたこと。二人とも、もちろん結婚していて、子供も大きくなっている。それぞれ、母国の仕事を退職して、アメリカの大学院への入学を目指していた。


家族を連れて受験留学

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2006年8月22日、N会長の勧めのとおり、アメリカへ家族を連れて出発した。


仕事を辞め、アパートを引き払い、貯金を切り崩して「受験勉強」をする。
後から考えてみても、本当に無茶な話だったと思う。
この決断に、ロジックはあまりなく、直感としか言いようがない。


しかし、この直感に従わなかったら、決して合格はなかった。
パズルのピースのように、この受験留学の間に、いくつか重要な出来事があったのだ。


●留学の目的

この半年間の間の達成目標は3つあった。

1.GMATを攻略すること
2.可能であれば面接を受けること
3.Admission Officeの人に直接会うこと

特に、GMATが最大の鬼門であることは明白で、結局8月から3月まで、GMATの対策に明け暮れることになった。

プレゼンスのGMATコース

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GMATのPowerPrepを受けて驚愕した。

350点だった。

仕方がないので、その結果を山田コーチに送付した。あまりに悪いので、正直お断りされるかとヒヤヒヤしていたが、結局受けて頂くことになった。


GMATのコースはマンツーマンのコーチングセッションで、特にVerbalセクションを中心に、取り組む際のマインドから、具体的な参考書の選定、対策方法、時間管理などを学習した。

このコースは2ヶ月でGMAT700点を取ることを狙っているコースだったのだが、これを実現するためには、かなりの素養が必要になるという実感だった。正直、僕レベルの英語力、数学力ではまったくだめだったが、高校までの数学をみっちりやっていて、尚且つ既にTOEFL CBTで270点くらいの実力ある人だったら、このGMATコースを受ければ、かなりの確率でスコアが出るように思う。


山田コーチは、僕にとっては、本当に「おっかない」人で、とにかく、毎回コッテリ絞られた。(もちろん、いい意味で。)

「プロ意識」のようなものを何度も叩き込まれたと思う。


結局、アメリカに行くまでの2ヶ月間、プレゼンスのGMATコースにお世話になりった。渡米準備で忙しかったが、勉強する正しい方向性を身につけられたことが最大の収穫だった。

GMATの予備校も、結局プレゼンスにしようと思った。

理由はいろいろあったのだが、決め手はやはり価格と、TOEFLで散々お世話になったこともあり、勉強の進め方の慣れがあると思ったからだった。

本当は、イフやプリンストン、吉井先生のYESなども興味があったのだが、とにかく学費が高く、我が家のCEO(超偉い奥さん)に少し相談したところ、

「そんなお金、あるわけないじゃない」

と一蹴。なんとか、プレゼンスの20万円の稟議だけを通すことができた。


ところが。

プレゼンスに、受講に興味があるので、詳しい話を聞かせて欲しいといって、担当の山田コーチに話を聞きに行くと、厳しい話をたくさん頂くことになった。

GMATがいかにタフな試験か、TOEFL240程度では全然歯が立たない、スクールのリソースもかなりきついので、結果を出せそうにない人に、無理に講座を受けて欲しくない‥etc。最終的には、とにかく、GMATのPowerPrepがダウンロードできるから、一度受けて結果を教えてください、とのことだった。


特に、受けて欲しくない、という言葉にはびっくりしてしまった。TOEFLのクラスもきつかたが、GMATはそれに輪をかけて厳しそうな臭いがプンプン漂っていた。

GMATの勉強を開始する

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TOEFL の勉強が終わった僕は、すぐに GMAT の勉強に取り掛かった。この GMAT の攻略こそは MBA 受験の前に立ちははだかる最大の壁だった。

 

GMAT とは、 Graduate Management Admission Test の略で、欧米の MBA の受験時に大学が要求してくるテストのことだ。一般的に、日本人の平均点は 535 点だが、ハーバードなどのトップスクールへ進学する際には 800 点満点中、 700 点以上が必要になると言われている難関テストの一つだった。

 

GMAT Verbal, Math, Writing の3つのセクションに分かれているが、有難いことにブリガムヤング大学では Writing 不要ということで、 Verbal, Math の2つのセクションだけを取り組めばよいのだが、困ったことに、僕は小学校のときから数学が苦手で、 Math はからきしだった。

 

一般的に、日本人の得点パターンは Math セクションでほぼ満点を出し、その後 Verbal セクションで何とか30点近くを狙う、といった形になる。そんな中で Math が苦手ということは、致命的な弱点だった。

一般的に、海外の MBA は推薦状を要求する。 ブリガムヤング大学 の MBA に出願するために必要な推薦状は 3 通だった。通常は仕事の上司と、大学時のゼミの先生にお願いをすることになる。

実は、私にとってこの推薦状は小さからぬ心配の種だった。というのも、大学生のときに、残念ながら僕は通常のゼミに入室しておらず、いわゆる「教授」と名のつく人と個人的な関係がなかった。

一通はもちろん、 N会長が書いてくださることになっていたが、あと 2 通をなんとか手配しなければならない。

2006 年の 5 月~ 8 月まで、僕は N会長の会社で働かせて貰っていた。入学までの期間、経営者として働いているN会長の下で、いろいろな教えを受けてみたかったのだ。後で振り返ってみても、本当にこの決断をしてよかった。というのは、思わぬところで大学の先輩に会えたからだ。

僕が仕事を辞めて N会長のところで働き始めたと同じ時期に、 N会長の 2 人の義理の息子が ブリガムヤング大学の MBA のインターンで戻ってきていた。そのうちの片方は 広谷君という一つ歳が上の人で、席が隣になった。よく話を聞くと明治大学の先輩であることが分かった。しかも学部まで一緒で、すぐに僕のよき相談相手になってくれた。

推薦状が 3 通必要だ、という話や、推薦状はオンラインで入力する仕組みになっていることも、この広谷君に教えてもらった。

7 月になったとき、広谷君が MBA プログラムの元ディレクターで、日本で働いている人のところへ挨拶に行くから一緒にどうか、と言ってくれた。

henry2003_eyring.jpgその方はヘンリーアイリングという名前の人で、ブリガムヤング大学の MBA とロースクールを出たあと、モニターカンパニーで勤務し、ブリガムヤング大学の MBA プログラムのディレクターを歴任されていた。ちなみに、おじいさんは著名な科学者で、お父さんはスタンフォード大学の元教授という秀才家族の家系だった。日本にいたのは、 3 年間、教会の Mission President としてボランティアで 3 年間奉仕する責任を負い、東京都中野で働いていた。


7 月の暑いある日、僕は広谷君に連れられて彼の中野のオフィスへ訪問した。実は 3 年ほど前、彼が日本に来たばかりの頃、セミナーで一度彼に会ったことがあったが、ずっと前のことだったし、もう忘れてしまっているだろうと思っていた。

ところが驚いたことに、 President アイリングは、

「ひさしぶりですね。」

と声をかけてくれた。


「すごく賢い人だよ。特に記憶力がすごい。」

広谷君からそう聞かされていたが、本当にその通りだった。


しばらく話した後、僕が MBA を受験する予定だ、というと、

「何か私にできることがありますか。もし必要でしたら、推薦状を書いてあげましょうか。」

と申し出てくださった。

元 MBA のディレクターをされていた方が推薦状を書いてくださるなんて、そんな夢のような話はない。是非お願いすることにした。


3 通目は母校の大学の教授を N 会長から紹介頂き、その関係で入手することができた。こうして 3 通の推薦状を揃えることができた。

TOEFLを攻略

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2471_image1.jpg人間というのは面白いもので、目標の値というのが大きな壁になってしまうことが多々ある。

僕の場合も例外ではなく、その後のテストは220点台と230点台の常連になり、なかなか240点の壁を越えることができなかった。年が明けてもスコアがでないので、僕はあせりだしていた。その最大の理由は、早くTOEFLを終わらせて、GMATの勉強を開始する必要があったことと、TOEFL の受験制度がCBTからIBTに変更になる過渡期だったことが挙げられる。IBTになると、試験の構成ががらりと変わってしまうため、今までやっていたスキル的な部分が無駄になってしまう可能性があった。


2月、3月、4月と立て続けに試験を落とした僕は、とうとう最後のつもりで5月の試験の予約を入れた。ところが、その試験の2週間前に原因不明の熱を出し、1週間まるまる寝込んでしまった。そのため、リスニングの勉強時間が極端に減ってしまった。結局、熱が完全に下がったのは試験を受ける3日前だった。


萱場町の試験センター10時から試験を受け始め、試験を終了したのは午後1時を回っていた。CBTの場合、試験終了後に、スコアレンジ、というものが表示される。これはライティングが手作業によるスコアリングのため、それ以外の点数を計算した○○点~○○点というレンジ形式でスコアが出される。


僕は自分のスコアレンジをみて凍りついた。

「175~243点」

243。これは、ライティングでほぼ満天を取らなければ目標スコアを出せないことを意味していた。痛かったのはリスニングで、普段は30点満点中23~25点くらいは取れるところが、19点と落ち込んだ。やはり1週間ほとんど英語を聞けなかったことが響いていたようだ。

のちに、この19点とうスコアが、大きな問題を引き起こすことになるのだが、このときはそんなことは知る由もない。救いだったのは、このときのライティングのテーマは、何と数日前に練習で書いた、問題集のテーマとまったく同じだったのだ。運よく模範解答の内容や構成を覚えていたので、いままでになく回答が書けた、という感触だけはあった。しかし、6点満天で1点でも減点されれば、ゲームオーバー。しばらくは心配で眠りにつけなかった。


スコアが返却されたのは1ヵ月後の6月の上旬だった。職場に社長(妻)から電話がかかってきた。

社長(妻) 「スコア、来たわよ。」

僕 「本当!?どうだった。」

僕は固唾を呑んだ。



社長(妻) 「243!!!ライティングがね、6点満点中5.5点!」

奇跡だった。後にも先にも、5.5 などというスコアは出したことがない。本当に運としか言いようがない。結局、プレゼンスに通い始めて丁度1年かかってしまったが、アメリカに行く前にTOEFLのスコアを出せて、本当にほっとした。

20090208135405.jpgプレゼンスは、杉村太郎氏が、ハーバード大学ケネディスクールに受験したときの受験ノウハウを中核に、TOEIC、TOEFL、GMATなどの語学系の資格試験の対策スクールとしてオープンした学校だ。
http://www.presence.jp/


プレゼンスの最大の特徴は僕の視点からまとめると、下記の3点に集約される。

1.コストパフォーマンス
TOEFLのすべての領域をカバーしているにも関わらず、最も高いコースでさえ20万で収まること。僕のような貧乏受験生にとっては非常に重要なポイントだ。


2.英語をまったく教えない授業内容
何 と、プレゼンスでは「英語」はまったく教えてくれない。その代わりに、「英語の勉強方法」を徹底的に叩き込まれる。これが、短期間で結果を出すための最重 要のポイントだ。TOEFLのそれぞれの領域で、どの参考書を、どのように、いつまでに消化していけば、どれだけの点数が上がるのかをレクチャーしてもら える。

下記がプレゼンスで使用している教材の一部。どれも選りすぐりだ。

  • TOEFLテスト英単語3800 (TOEFL iBT大戦略シリーズ)
  • TOEFLテスト基本ボキャブラリー2000語
  • TOEFLテスト完成ボキャブラリー2000語
  • TOEFL TEST対策iBTスピーキング
  • The Official Guide To The New TOEFL iBT Abridged Bilingual Edition with CD


    3.グループコーチング
    プ レゼンスのクラスは15人前後のグループコーチングの形式で行われる。このグループコーチングこそが、モチベーション維持の重要な仕掛けになっていて、 「あなたが頑張らないと、他の人のモチベーションが下がる」といった連帯責任を全員に負わせることによって、お互いに支えあう(?)仕組みができている。

    さらに、毎回のショートテストのスコアはその場で発表することになっていて、ホワイトボードにすべて書き出されるため、宿題をやらないでいるととんでもない恥をかくことになる。一度、3回続けて宿題をやってこなかったクラスメイトがいたが、

    「○○さん、やる気あるんすか?」
    とかなりみんながいる場で、なじられていた。



    コースが開始されて、先ず驚いたのは、宿題の量。毎回自習までの宿題が課されるが、その量は社会人にとってはかなりきついボリュームだった。第一回目のクラスの後、次の週までの宿題が出されるのだが、面食らってしまった。

    「では、次の週までに、まずは 単語500個覚えてきてください。それと…」

    1週間で500個なんて、受験生時代にも覚えたことがない。

    プレゼンスの受講生は、一事が万事、このようなペースで毎週を消化してゆくことになる。


    coach_satoshi.jpgプレゼンスは合う人、合わない人にはっきり分かれるが、僕にとってはよかった。僕は栗原コーチに担当してもらった。熱くて真剣なコーチで、毎回「大久保さん、ツメが甘いっすよ。」と言われ続けた。この話を妻にしたところ、妻もことあるごとに僕に対し、「あなた、ツメが甘いわよ」と言うようになり、少なからず困った。笑


    プ レゼンスに通って2ヶ月たち、中級コースを終了してTOEFL CBTを受験してみると、スコアはあっさり200点台に到達した。スタートラインが150点台だったので、50点のアップだ。喜びもつかの間、そのまま 数ヶ月勉強したがスコアが横ばいになったので、上級コースを受講する決意を固めていた。


    上級コースはさらにスパルタ度がましていたが、3ヶ月の上級コースを受講して再度TOEFLに挑むと、233点と、目標の240点の目前まで届くようになった。

  • MBAの受験には、いろいろな準備が必要になる。その第一歩がTOEFLだった。実のところ、本格的にTOEFL 攻略に動き出したのはN 会長と出会う半年も前。そのときは具体的な留学のイメージも特になかったのだが、とにかくTOEFL は取っておかなければ、という意識で勉強を始めた。

    しかし、TOEFL の攻略には、思った以上に苦しんだ。

    どこから手を付けてよいのか皆目見当がつかなかったので、とりあえずインターネットで検索すると、渋谷にあるプリンストンレビューの「無料模擬テスト」が目に入ったので、受けに行った。


    この模擬試験は、今考えてみると単にTOEFL 受験後に誰でもETS からもらえるPower Prep を受けるだけだったのだが、とにもかくにも最初の一歩を踏み出した出来事だった。


    3 時間ほどの模擬試験を受けてしばらくすると、スコアが返却された。

    TOEFL CBT で、157 点だった。

    まあ、10 年前に大学受験をしたときの貯金の英語力を使って、このレベルだ。スタートラインが分かったので、次は予備校を探すことにした。


    すぐに思いついたのは模擬試験を受験したプリンストンと、イフ外語学院だったが、インターネットで受講料を見て気が萎えた。最低でも、30 万くらいは余裕でかかってしまう。こんな高額な授業料、我が家の社長(妻)の決済が下りる訳がない。


    47800292.jpg僕は、以前から気になっていたもう一つの候補、プレゼンスの説明会に行ってみることにした。プレゼンスの存在を知ったのは、一冊の本からだった。大学生だった頃、我極館という塾に行っていた友人から、杉本太郎の存在を教えてもらったのがきっかけで、以前書店で並んでいた新TOEICテスト900点 新TOEFLテスト100点への王道 を購入したことがあった。書いてあった勉強法は見事に挫折したが。この本の後ろに、プレゼンスの紹介が載っていたのだった。


    「本に書いてあることと、塾で教えてくれることとどれだけ違うのだろう?」


    そんな疑問を持って説明会に望むと、なんと杉村太郎が直接説明していた。正直、すごい迫力だった。

    「これがカリスマか!しかし…」

    うまく表現できないが、もの凄い大きなエネルギーと同時に、人を包み込む優しさのようなものを感じた。ここからは直感の世界。説明を聞きながら「ここしかない」と感じた。


    一応、前述の疑問も他のコーチに聞いてみた。

    「ああ、あの本ね。あの本に書いてあることはバージョン0だから。かなり改良が加えられているよ。」

    とのこと。確かに、実際に受講してみると、メンタリティ以外の具体的なノウハウの部分は、本に書いてあることと比較すると、まったく原型を留めていないと思う。


    職場の上司にうちあける

    |
     覚悟を決めた僕は、まず上司の山口さんにメールを送った。

    山口さん、
    いろいろ将来のことを考えたのですが、夏から留学することにしました。つきましては、今後の進展について、ご相談させて頂きたいのですが。

    すぐにメールが返ってきた。

    人生には2種類の後悔があります。
    一つはやっておけばよかった、という後悔で、
    もう一つはやらなければよかった、という後悔です。
    今度、飯でも食べながら話をしましょう。
    山口


    山口さんは僕が働いていた会社の直属の上司で、大変有能な方だった。元々日本総研出身のIT コンサルタントで、ソフトでありながら鋭い語り口、構想力、人望、リーダーシップのスタイルなど、私の仕事の上での師とも呼ぶべき人だった。

    数日後、山口さんは僕を鮨屋に連れて行ってくれた。事情を説明すると、

    「そりゃお前、挑戦しなきゃ駄目だよ。」

    そう言って、僕の決断を了承してくれた。本当に有難かった。


    byumba_1186728363_1.jpg このときに山口さんの経歴をいろいろと聞く機会があったのだが、これが大変面白い。山口さんは大学を卒業後、日本総研で数年働いていたが、何年かすると無償にリセットボタンが押したくなったのだという。そして、次に働く場所も見つけないまま、退社してしまったのだという。それから、何と3 年間も無職のままいたらしい。

    「何をしていたんですか?」と聞くと、

    「毎日美術館や、国会図書館に入り浸って本をむさぼり読んでいた」という。

    そして3 年ほどたったときに友人から

    「お前はいつまでそんな生活をしているんだ。」

    と言われて、半ば強制的に現在の会社の採用面接に行くことになり、現在に至るのだという。

    「商社っていうのは、いいね。こんなおかしな経歴の人間をやとってくれるんだから、本当に懐が深いと思うよ。まあ、やらなければよかった、という後悔にならないように頑張れよ。」

    そういって、僕を送り出してくれた。


    山口さんの上司の社長にも呼ばれたが、

    「お前に一体いくら投資したと思っているんだ。会社としては冗談じゃないぞ。しかし、個人的には理解できる。」

    そう言ってもらえた。社長が元々日商岩井出身で、海外経験が長かったことも、理解して頂いた背景にあったように思う。


    そんな訳で、僕は2006 年の4 月31 日に3 年間働いた会社を退社した。ついに、途中下車のできないジェットコースターは動き出してしまった。


    ブリガムヤング大学とは

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    BYU_full-campus&timp.jpg
    ブリガムヤング大学は、末日聖徒イエス・キリスト教会教会教育システムが経営する私立大学で、所在地はアメリカ合衆国ユタ州プロボ市だ。

    1875年10月16日末日聖徒イエス・キリスト教会 2代目大管長ブリガム・ヤングの提唱により、ユタ入植地における職業訓練、宗教教育を目的に創立された中等教育学校ブリガムヤングアカデミーが前身。1903年に現在の名称ブリガムヤング大学になる。

    198 の学術的なプログラム、69の修士号、27の博士号課程があり、生物学と農業、デヴィットOマッケイ教育学校、アイラAフルトンカレッジ オブエンジニアリングアンドテクノロジー、家庭、家族と社会科学、ファインアートとコミュニケーション、健康ヒューマンパフォーマンスと人文科学、J.ルーベン・クラーク法律学校、マリオットスクールオブマネージメント、看護、物理学と数学等のコースを学べる。


    中でも、アカウンティング、MBA、ロースクールの3つはBYUの看板学部と言われており、アカウンティングに関しては、全米でも常にトップ5に入るほどのランキング。僕の友人にもBYU のアカウンティングを卒業した人を数人知っているが、みんな、KPMGやプライスウォーター、ゴールドマンサックスなど超難関と呼ばれる会計事務所や外資系の金融機関へ就職していっている。

    一方MBAはと言えば、下記のとおりで、まぁ中堅の大学といって差し支えないと思う。
    17th MBA Forbes, 2005
    34th MBA U.S.News & World Report, 2006
    World 57th MBA Financial Times, 2007

    帰宅後、社長(妻)が待っていた。

    社長(妻) 「どうだった?何の話だったの?」

    僕 「それが…、推薦状書いてあげるから、仕事やめてすぐにアメリカに行ってMBA の受験しろって。」

    意外なことに妻はこう言い放った。

    社長(妻) 「もう行くしかないじゃない!」

    僕 「へ?」

    少しは反対するかと思ったが、即答されてしまったので、拍子抜けしてしまった。

    社長(妻) 「こんなチャンス、二度とないわよ。」

    と妻。


    しかし、妻の了解は得たものの、僕はすぐには決断できないでいた。一番引っかかったのは、現在の仕事。仕事は正直面白く、昇進も近かった。お世話になっている上司のことを思うと、申し訳なくて、とても「辞めます」とは言えない。


    また、MBA を目指すのに仕事を辞める必要はないのでは、という考えもあった。いろいろな体験談を読む限り、そんなリスキーなことをしている人は誰もいない。第一、そんなリスクを取って、もし落ちたら大変なことになる。妻子がいる身で、そんな賭けには出れない。


    tokyo_lds_mormon_temple2.jpgしかし、妻が言うとおり、確かにチャンスではある。いろいろと考えれば考えるほど、どうすればよいのか訳が分からなくなってきた。悶々と悩みながらとうとう1ヶ月が過ぎてしまった。最終判断を下すために広尾のTokyo Templeに行くと、偶然以前お世話になった大野Bに再会した。

    大野B 「久しぶりだね、元気にしている?」

    声をかけてくれたので、詳しい事情を説明すると

    大野B 「そうなんた。確かに迷うね。でも、同じチャンスは二度とこないからね。」

    そう言ってくれた。


    同じチャンスは二度とこない。この言葉が頭の中で反芻した。そして、決断した。

    「よし、やってみよう!!」

    僕は、途中下車のできないジェットコースターに乗ることにしたのだ。


    運命の日、2006年2月9日

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    img01.jpg会社を 6 時過ぎに出た僕は、 7 時に N 会長のオフィスへ向かった。 N 会長のオフィスは飯田橋駅から 5 分くらいのところにあった。行くと、中年の男性が出迎えてくれ、N会長まで通してくれた。

    N会長 「それで、あなたはなぜ BYU Management Society で働いているのですか?BYUの卒業生ではないんですよね?」

    こんな会話から、話は始まった。
     

    30 分ほどだろうか。今までのいきさつや、大学のこと、仕事のこと、家族のこと、いろいろと質問された。これが面接だったと気付いたのはしばらく後のことになるのだが、質問が一通り終わると、 N 会長は一息ついてこう切り出した。

    N会長 「それで、今日の本題ですが、どうですか、 BYU の大学院、 MBAを目指してみませんか?やる気があるなら、推薦状を書いてあげますよ。」

    この申し出には本当にびっくりした。どういう訳か、僕は運命的なものを感じた。

    N会長 「どうですか、興味はありますか? TOEFL とかは受けたことがありますか?」

    という N 会長の言葉に対し、僕は半ば反応的に答えていた。

    僕 「もちろんあります! TOEFL も 233 点を最近取ったばかりです。」
     

    ここまでは話は大いに盛り上がったのだが、この先の N 会長の提案にはびっくりした。
     

    N会長 「では、仕事をすぐにやめて、アメリカに行って下さい。」

    僕 「えっ!?!?」

    N会長 「あなた IT 業界ですよね?忙しい仕事をしながらでは合格する可能性も低いので、アメリカに私の会社が経営する英語学校がありますから、そこで集中的に勉強したらどうですか。」

     
    そう言って、 N 会長は紙に今後のスケジュールの概要を書き始めた。来月に仕事は辞め、一度N会長の会社に入社。夏にはアメリカに行く、 3 月になったら戻ってきて…

     
    「仕事を辞めて、アメリカにMBA受験に行く」。インターネットなどで情報を収集する限り、そんなリスキーな話は聞いたことがない。しかも、仕事は楽しく、人間関係もうまくいっていて、来月やめるなどと言うことは想像もできない。いずれにせよ、妻子がいる身では、こんな重要なことは一人で決める訳にもいかない。僕は言った。

    僕 「…ちょっと、妻と相談させて頂けませんか。」

    N会長 「もちろんです。よく相談してみて下さい。」
     

    帰り際、僕は恐る恐る N会長に聞いてみた。

    僕 「あのう、どうして見ず知らずの僕に、こんな申し出をしてくださるのですか。」

    N会長 「あなたが、 BYU の MBA に行って、そこで学んだことを将来日本の教会や社会のために使ってくれるなら、私はあなたを助ける価値があります。」

    その無私の心に感動した。


     LDS キャリアフォーラムでは四半期に一度、ゲスト講師を招いて、セミナーを開催していた。外資系金融機関の COO や、ヘッドハンター、教育研修企業の幹部の方など、いろいろな方が来てくださった。


    キャリアフォーラムを主催するようになって、2年近くが経った頃、 BYU Management Society という組織があることを知った。代表をしていたのは田淵さんという方で、独立されてコンサルタントをされていた。 BYU Management Society に興味を持った僕は、偶然ネットで田淵さんの連絡先を見つけ、連絡してみた。すると「一度意見交換しましょう」という話になった。
     

    2005 年の秋に僕は有楽町で田淵さんとお会いすることができた。いろいろと話してゆくと、 LDS キャリアフォーラムと BYUManagement Society はほとんど同じ目的を持っていることが分かった。同じ目的を、異なる組織が別々にやるのは効率が悪いから、ということで、統合する話がとんとん拍子に決まり、 2006 年の 1 月に正式に合併することになった。
     

    そのときの合併記念のセミナーに来てくださったのが、僕の恩師になる N会長だった。

    N 会長は、教育会社を 4 社経営するオーナー会長で、当時 BYUManagement Society の顧問をされていた。 BYUManagement Society とは、その名の通り、 BYU という大学が母体になって始まった組織で、 N 会長は BYU の卒業生だった。方や僕はといえば、 BYU とは縁もゆかりもない人間で、 N 会長からみれば「卒業生でもない人間がどうして BYU の組織の事務局で働いているのだろう?」と不思議に思ったようだった。

     
    セミナーが終了してから 2 週間後、僕のところに N 会長からメールが届いた。

    「個人的に話したいことがあるので、 2 月9日に、 私のオフィスに来て頂けませんか?」

    そして、運命の日、2月9日を迎えることになる。

    呼ばれているような気がする

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     アメリカには、大学生の頃から、いつか行くような気がしていた。でも、どういった形で行くことになるのか、まったくイメージができなかった。僕はもう日本の大学に行っていたし、実家のお金の問題があり、在学中に留学するのは困難であることがわかっていた。

    そんな大学生活で「 MBA 」という言葉に始めてであったのは、アルバイト先でのこと。当時、僕はふとしたきっかけで、大前研一氏が起こした社会人向けの教育会社「ビジネスブレークスルー」アルバイトをしていた。そのアルバイトというのが、遠隔教育のボンド大学 MBA プログラムのカスタマーサポートだった。そこで MBA という言葉に出会うまでは、 MBA が一体何の略なのかもよく分かっておらず、資格の一種かのように考えていた。


    MBA というものについて、ある程度理解が深まると、当然のことながら、自分も行きたくなった。しかし、トップスクールへの私費留学はウン千万もかかりそうだ、ということが分かった。では社費で、という話しになるが、当時の日本は不況にあえいでいた時期で、そういったオプションを提供してくれる会社は激減していた。


    そんな分けで、数年が経ち、気がつくと、僕は帝人のグループ会社に就職し、妻と結婚していた。妻と結婚した2004年の春、僕は友人達と一緒に、「 LDS キャリアフォーラム」というキャリアについての勉強会を立ち上げたのだが、実はこの「LDS キャリアフォーラム」の立ち上げと運営に携わることが、留学の実現にとって非常に重要な複線になる。

    はじめに

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    2007年6月22 日、合格を告げるメールの受け取りとともに、ついに2 年間に渡る大学院受験が終わった。合格したのは、ブリガムヤング大学の経営大学院、マリオットスクール。アメリカユタ州のプロボ市にある私立大学。

    1000853.jpg本当に長かった。苦労した、と言葉で言うのは簡単だけれど、家族として幾多の試練を乗り越えた末に手に入れた、未来への扉だった。

    もし僕が人生の中で、多少なりとも人に誇れるものを達成したことがあるとしたら、それらは私の愛する妻と、子供達の支え、そして数多くの人々の助けと励ましがあったからにほかならならない。

    ブログなど、書いたこともなかったが、入学にあたって、受験時代、そしてこれから始まる2年間の記録を、まだ幼い子供達に残さなければ・・・そんな思いが強く湧き上がってきた。

    そんな訳で、この記録は、最愛の妻と、2 人の子供たち、そしてお世話になった多くの方々へ贈る、僕の留学生活の記録です。将来子供達がこの記録を読むときに、父親が何を感じ、何を学び、そして、どれだけ多くの人が、僕たち家族を助けてくれたのか、この記録から、少しでも学んでくれたらと思う。

    プロフィール


    明治大学政治経済学部卒業。帝人グループを経て、現在ブリガムヤング大学経営大学院マリオットスクールMBAプログラムに在籍。上司であるCEO(超・偉い・奥さん)と、新入社員(子供)二人の4人家族。 このブログは、まだ小さな2人の子供たちに、将来本にして贈るために書いています。


    BYU MBA日本人会公式サイト↓


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